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2012年7月18日 (水)

前川の六代伝説と、伊刈の力神社

平家の嫡流、最後の人。平高清(たかきよ)、通称六代(ろくだい)の伝説が、この川口前川周辺に残っています。一番有名なのは、前川観音ではないでしょうか。前川観音の縁起には、こうあります。

「やがて源頼朝なき後、鎌倉幕府は再び妙覚(出家した六代のこと)を捕らえ駿河の国の千本松原で首を斬ろうとしたが妙覚の千手観音から五色の光が輝き斬り手の目がくらみ転倒してしまった。その時どこからともなく二頭の白馬が駆け寄り妙覚を乗せて飛ぶがごとく走り去った」

そしてたどり着いたのが前川の地で、六代は69歳(68歳)まで生きたと言う。

六代についてはいくつかの伝説が残るものの、おおよそ30前後で亡くなり、おそらく現在の静岡~神奈川で処刑されたものと思われます。平家の落人伝説は100以上あると言われますが、前川の伝説はそのうちの1つということです。

さて、川口に残る六代の伝説は、実は前川観音だけではありません。前川観音の南西、100~200メートルほどのところに公園があるのですが、こちらには愛宕さまと呼ばれる、六代の首塚があるのです。

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この愛宕さまにある案内板によると、「伊刈の神社の境内に六代御前の墓なるものがあって、そこに首が流れ着いたのだという説もある」とあります。
更に新編武蔵風土記によると、「六代が姿三ヶ所に見えなどし」つまり、六代の姿が3箇所にみえ、どれが本物かわからない状態になって、追っ手の追求をかわしたらしい。その3箇所というのが、先の前川、伊刈村、根岸村だという。そして伊刈には六代権現社と、近くに塚があり、根岸のものはもうなくなってしまったのだという。

以上を整理して、多少の推測も入れると、こんな感じになる。

六代、前川に落延びて来る。六代が馬から下りたことに由来し下原、笠を脱いだところを笠脱、と呼んで、この2つの地は前川の小字となる。
六代、前川に小堂を建て、守護仏(千手観音)を安置する。ここが前川観音となる。
六代、3箇所に姿を現す。この前川村、伊刈村、根岸村の3箇所。
六代、処刑される。首を切られ、その首を供養したのが前川の首塚。六代の墓は、伊刈にある。しかし、前川観音の縁起では、六代は処刑されていない。

う~ん、錯綜している。

   

さて、愛宕さま(首塚)と前川神社には、ちゃんと案内板があり、ここが六代にゆかりのある地であるということがわかる。

しかし、伊刈の神社にはそれがない。ぽっと訪れてみても何もわからない。これは残念だ。
そこで、伊刈の神社について調べてみたいと思う。

まず伊刈という地について。
現在の伊刈について、私がまず思い浮かべるのは「伊刈消防署」と、「川口北郵便局」。芝東小学校もある。そして、地域(伊刈村)を横断するように、外環が通っている。
伊刈はかつての伊刈村。もともとは芝村で、芝伊刈といわれていたが、1690年に分村したという。伝承によると、伊刈はかつて「怒」の字が当てられていたと言う。なぜ怒りなのか、その理由として思いつくものが2~3あるけど、地名、古語で考えると、「洪水のおきやすい地」、つまり碇の伊刈というのが妥当な線か。

さて、件の伊刈の神社とは、「力神社(ちからじんじゃ)」のこと。外環の南側、伊刈の南東すれすれのところにある。近くには「くるまやラーメン」や「びっくりドンキー」、すぐ目の前には「芝福祉センター」がある。

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この力神社、主祭神は天手力男命で、本社は長野の戸隠神社であると考えられているが、これはそもそもの伝承が忘れ去られたことに起因する間違い。明治に入り、天手力男命は恐らく力神社の力の字から連想され、天手力男命を祀ることから戸隠神社を本社と考えた、というところだと思う。

しかし、力神社の力の字は、風土記稿によれば「力大明神社(中略) 昔六代禅師此の地に来りし時、その従者を祭れり、神号はかの従者の名の一字を取て称すといへど、事実詳ならず」とあり、六代が本当に来たのかどうかはわからないが、従者の名前から取ったのだと言う。

「その従者を祭れり」というのが気になり、また謎が増えた気がしますが、考える材料がないのでとりあえずスルーしよう。
      
相殿に稲荷神と高木神を祀っていて、この高木神が六代権現を改めたものではないかといわれている。というのも、六代が出家して妙覚となるまえは高清と名乗っているから、というのだが、本当にそうだろうか?
風土記稿には、「稲荷社、六代権現を合祀す」とありますが、私は高木神の方は六代ではないのではないかと思っています。

少し話が横道にそれますが、私は、六代が本当にこの地に来たのかというと、ちょっと怪しいと思っている。それなので、当初、いくつかの説を考えていた。
六代ではなく、第六天社だったのではないかと考えたのです。第六天社は関東に多く、その中で高木神社を名乗っている神社が、押上と葛飾にあります。ここは、戦に破れてこの地に移り住んだ、安房の豪族里見氏の家臣である武内家が、氏神の第六天を祀ったことによる。そしてこの2社は、祭神を高木神、つまり高御産巣日神(タカムスビ)としている。その他の第六天社の多くは、明治の神仏分離の際に、六ということからの連想で、第6代の神オモダル・アヤカシコネを祭神としているが、先の2社は、タカムスビを主祭神とし、高木神社を名乗っている。
伊刈村には字で高木という場所があり、近辺にある芝や神戸にも、同じく高木や高木前などという地名がある。高木という地名は珍しいものではないものの、何かしら関連があるのではないかと疑い、そこからの連想も手伝って第六天-武内家と、力神社が関連があるのではないか・・・と考えた次第。しかしそれ以上のことを考えようもないので、とりあえず却下。

         

さて、話を戻し、伝承によると、力神社の近くに六代の塚があるという。風土記稿にはこうあります。「(伊刈)村内畑中に六代権現墓印と唱へ、囲み三尺許の松あり」。おそらくこれは、この石碑だと思われる。

Photo_3

正面に六代宮本地陀枳尼天とあり、安政六年四月吉日とある。これでしょう。

側面には、願主 小林助七 並木幸七とあり、この並木幸七という人は、おそらく伊刈村名主役で後に明治に入って神根村の初代村長になった、並木幸七さんだろうと思う。今はこの陀枳尼天、旧伊刈村というには微妙な位置にあるのですが、芝村の資料を読むと「伊刈地内、俗に六代というところに」あるというので、伊刈にあったのは間違いなく、さらにはかつてこのあたりは六代と呼ばれていたのだろうと思う。

            

陀枳尼天とは、なるほど!です。
陀枳尼天は人の血肉を喰らう怖い神でありますが、中世、狐の稲荷と習合します。また清盛と狐による説話も残されており、そこでは、外法といわれる荼枳尼天の修法がゆえに平家の栄華は短かったとも言われ、ともかくも平家と狐、陀枳尼天はつながりがある。

そこで考えると、力神社において六代権現が稲荷と合祀されたのも理解しやすい。であるならば、今はおろか江戸時代でさえ場所が不明となっている根岸村の六代ゆかりの場所も、稲荷と関係があるかもしれないと考えるのは飛躍しすぎでしょうか。

               

さて、やはりここでも六代の謎については解けずじまい。

まったくの個人的推測では、おそらく六代自身がこの地に生き延びてきたのではなく、ゆかりのある者がこの地にきて、永住したのかどうかは分かりませんが、いくつかの塚や神社を建てたのではないかと思う。
前川神社、愛宕さまでは、共通して斉藤五、六の兄弟、大熊六郎という名が出てくる。力神社では、六代の従者の名をとって、力大明神社としたとある。斉藤兄弟は斉藤実盛の子として有名だが、彼らのような平家、とくに六代に縁ある人々がこの地に何かを残そうとしたのかもしれない。あるいは・・・。

ところで、現在の力神社は、後ろ側を用水が流れている。これは六ヶ所村用水だと思うのですが、古くは古芝川(ふるしばかわ)と呼ばれていました。そしてこの古芝川は、今とは逆に、神社の西側、道路側を流れていた。つまり、神社に入るには、川を渡り、鳥居をくぐることになります。この神社はなぜか参道が直角に折れている。今はともかく、昔であれば周囲は畑であったのだから、いくらでもまっすぐに治せたはずだ。
参道が直角に曲がる神社は珍しい。私は、これはやはり、この神社の来歴に関係があるのではないかと思う。それは伊刈が怒と当てられていたその由来にも、起因するのかもしれない。それは考えすぎだろうか?

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コメント

先日お知らせしました、八雲神社からバーミヤン駐車場に出る県道から一本裏の通り、ここにあるのが伊刈大明神ではなくて稲荷大明神です

それと、力神社ですが
以前は、県道に沿って川が流れており、橋を渡って参拝しました
ネットで古い写真を見つけました(下のほうにあります)
http://kamimeguri.web.fc2.com/kawagutitikarajinjya.html

それから、古代人は山岳信仰のひとつに丸い石を神聖なものとして拝んでいたそうです

投稿: 武南歩兵部隊班長 | 2014年4月22日 (火) 14時13分

班長さん、コメントありがとうございます。
力神社の古い写真、リンク先にて確認しました。
今の雰囲気とはまったく違いますね。
参拝するのに川を渡って、しかも参道が直角に曲がっている(これは今でもそうですが)というのは、何かを暗示していそうな雰囲気が・・・。

投稿: 上根又三郎 | 2014年4月23日 (水) 09時21分

神社の敷地で育ち、神社に抵抗の無い私ですが、
力神社は怖くて日ごろ気安くは近寄れませんでした
現在のようになったのは、比較的ここ最近です

ここと、高木の八雲神社は現在の天皇陛下が皇太子のころにいらしたそうで、石碑が残っています
その他に、バス停前の地蔵様の横には薩摩藩浦和領伊刈村と刻まれていた記憶があります

八雲神社裏の稲荷大明神も、遥かに高い垣根に挟まれた今は無い細道で、小さい鳥居をくぐって直角に曲がって社でした
現在は細道の参道がなくなると、鳥居から入って直角に曲がって社です
意味があるのでしょう
どちらも社は北を背にしている模様です

投稿: 武南歩兵部隊班長 | 2014年4月24日 (木) 00時52分

力神社はかつて大人神輿が荒々しいものだと聞いたことがあります。力の字は六代の従者よりとったものとされていますが、この「いかり」という地にあって、この神号。力神社の本来は、いったい何でしょうね?

六代といい、伊刈といい、調べれば調べるほど色々出てきますね。

薩摩藩浦和領伊刈村・・・薩摩、ですか。
これは・・・!!

投稿: 上根又三郎 | 2014年4月24日 (木) 17時25分

ご無沙汰しております^^

記憶を遡りながら色々な人に話しを聞いて回ってます^^

やはり、力神社が怖かった理由に
「あそこは、偉い人のお墓でもあるのだから他の神社とは違う。むやみに騒いだりしてはいけないよ、そっとしておいて」
と聞いていたことからでした


ここからは現段階ではまだまだ想像の域の話しですが
「力神社」の「力(ちから)」
これ、カタカナの「カ(か)」だったらどうなのかと
そうすると、
田畑を耒で耕して生産力を加えるという意味の由来である「加」になります
そしてまた、左の「力」は右に「口」をもって言葉をはっすることで更にパワーをアップさせる源、ことの「はじまり」でもあります

そして、伊刈という文字
「伊」は由来的に天下を治める人など偉い人を指す文字ですよね
イザナギにもイザナミにもはじめに「伊」がつきます
そしてまた、仏教の伊舎那天にも付いています
伊舎那天は欲界第六天の主

「刈」はどうでしょう
草や毛など生えているものをかる、切り離す、殺す
という意味
カタカナで切り分けると、
「メ」は女、「リ」は利益・儲かるという意味だそうです

1.毛長川・旧入間川の流れがこのあたりにもありました
芝下周辺の古地図を観ると、川の流れのような跡がみれます
自然防波堤があったとしても、あちこち氾濫していた名残として芝東中学校近隣や、現在の芝下3丁目~宮根にかけて池・沼が点在していました

これを刈る=整えてしまえば、田畑が広がり儲かりますね
それにしても、大河の水が引くにはやはり神がかりな出来事でも起きて塞き止められ流れが変わるなどなにかあったのでしょう
隕石みたいなモノが振ってきたとか、大地震でどこか崩れたり
でなければ中世以降の治水工事が素晴しくても、さすがに大河をほぼなくしてしまう、というのは無理ですよね

2.もしも第六天の主を殺されて女(妻)だけ儲かったら、
怒りますよね^^
逆に、第六天やイザナギなど男性だけ持て囃されれば、妻も怒るのではないでしょうか

斑鳩に近い理想郷を作ろうとしたのであれば、ヨクヨク深く考えてバランスを取った最高のネーミングな気がしてきました
想像でしかありませんが、イメージは繋がってきた気がします

同じく元は伊刈(字高木)にある、バーミヤンの傍の高い木、
やはり樹齢が相当あって川口市のものになったようですが、落雷による火事などの懸念から斬ってしまって後の祭り
今や、バランスがとれなくて傾いてしまいました
考えても見てください、今の高さの倍近くあったんです
何百年と落雷で被害がなかったのは逆に神がかり的ですし不思議に思います
ということは、何も切る必要は無かったのではないかと
高木神だったらどうしますか?

それから、同じく高木の八雲神社~稲荷大明神の間にあった塚のようなもの
幹が太くて背は低く松ぼっくりが沢山取れる松に囲まれていたんです
なくなってしまって勿体無いですね

投稿: 武南歩兵部隊班長 | 2015年2月13日 (金) 06時46分

初めまして。前川という地にまつわる数々のご推論、非常に楽しく拝見させて戴きました。有り難うございます。
前川について色々とお調べになっていらっしゃるようですね。もしご存知であれば、ご教唆お願い致したいと思いまして、メールさせて戴きます。
私はちょっとしたご縁がありまして、只今、前川神社さんの周辺について調べております。そこで質問が二つほどありまして、お教え戴ければと思いました。

その1
前川神社さんと前川観音さん、或いは、愛宕さまとの関係について、ご存知のことがあれば教えて戴ければと思います。六代伝説で繋がってはいると思うのですが、浅学の至り、どう関係があるのか、教えて頂けませんでしょうか?

その2
前川神社さんは、大正時代、巫女さんをたててはいませんでしたか?
落雷と本殿焼失の際、巫女さんが怪我された、という伝承は残っておりませんでしょうか?

大変藪から棒な質問かとは存じますが、もし、ご存知な項目等ございましたら、御教授戴ければ幸いです。どうぞ、宜しくお願い致します。

投稿: 易経生 | 2015年6月 1日 (月) 16時22分

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